未来の幸福を追い求めることは「苦」である

私たちの文化では、私たちの最高の努力は「幸福の追求」であるべきだと信じ込まされています。目を覚ますことを望む人なら誰でも、これがすべての苦しみのレシピであったことを理解できます。幸福を追求するために戦争が起きたこともあります。人々は、最後に幸福になることを願いながら、一生を闘っています。幸福につながるという前提で行われるさまざまな活動によって、地球はより悪くなっています。

幸福を追い求めるなら、想像上の未来のために現在を犠牲にしているのだ、ということが容易に理解できるのではないでしょうか。個人の意志は常に未来を見つめており、幸せな未来を確保しようと、労苦し、もがき、努力することを狂おしいほど強要します。しかし、残念ながら、この「幸せな」未来は、いつもその人を遠ざけてしまうようです。でも、その幸せはすぐに消え去り、その代わりに苦労や苦しみが増える。そんな人生でいいのでしょうか?

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人生は幸福を追い求めるものではなく、幸福を表現するものです。しかし、恒久的な幸福の場所にいなければ、幸福を表現することはできません。人だけが、幸せは手に入れる必要があると考えがちです。生命は本来、常に幸福であり、幸福になるために何かを得る必要はありません。永続的な幸せはあなたの本質ですが、「人」は決してそれを手に入れることができません。人が消滅すれば、残るのは「幸せ」だけなのです。ゴータマ・ブッダは、この真理を「無我、無苦」という言葉で端的に表現しています。

「自我」とは、現実や真実に対する心の中の誤解、あるいは無知によって生み出された力です。自分を維持し、自分を幸せにすると想像する目標を追い求めるために、自分の意志を使い始めてしまいます。「自我」の意志とは、個人的な意志のことです。自分自身の経験を見てみると、「自我」が幸せであったり、満足していたりすることはほとんどないことに気づくでしょう。「自我」は常に維持される必要のある構造物であり、維持しようとする努力がなければ、「自我」は力を失って溶解し始めるからです。だから、「自我」は無限に自分自身に「コンテンツ」を追加し続けようともがき、いかなる形であれ自分自身を減少から守ろうとするのです。個人の意志は、「自我」が自分を維持するための力。「自我」は永久に幸福や満足を味わうことができません。

あなたが「自我」の力を手放し始めると、あなたは自動的に「存在」の空間で休み始めます。この「存在」の空間は、個人の意志、つまり「自我」のエネルギーが解消され始めるにつれて、ますます強力になっていきます。あなたは、「自我」がいない状態では、常に幸せがあることに気づくでしょう。あなたは、自分が置かれている状況に関係なく、一瞬一瞬、人生の喜びを経験することになります。

幸せの海の上に座っていながら、幸せのかけらを探しているなんて、本当におかしな話です。あなたの本質が現れるように、「自我」は去らなければなりません。あなたが生まれながらの権利である自由を体験する前に、個人的な意志の喪失を受け入れる必要があるのです。あなたが誰であるかは、一瞬たりとも自由であり、一瞬たりとも喜びに満ちています。「人」がこの喜びを体験することはありません。「人」がこの喜びを曇らせているからです。

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